名人と言うことをよく申しまして、昔言っていた名人と今使われる名人というのは、だいぶ差があるような気がいたします・・・
うんと高い位置に名人というものがありまして、近頃はわりと簡単に名人名人と言います・・・
『~名人会』とか『~名人劇場』なんという、これは名人が出てくるんだろうな~!と思ってると、そうでもない人まで出てくる・・・
よく昔の話で、名人というのは逸話というものが多いですな・・
例えば、うんと名人の怪談話を聞いてて、聞いてるときはちっとも怖くないんです・・・
「話を聞き終わって、家に帰る途中でもって怖くなって怖くなってもう~ブルブル震えて動けなくなっちゃった~」なんということを聞くと、これは名人だなと思いますな・・・
科学的には説明できない何かがこう・・ふわ~っと出てくるんですな・・
そういうのが名人というような気がいたします・・・
ただ、今はそうじゃない・・・だんだんと名人という概念が変わって来ているようでございますが・・・
江戸時代のことですが、腰元彫りの名人で浜野矩康(のりやす)という人がおりまして、腰元彫りというのは、刀の目貫ですとか、あるいは小柄なんかに飾りをするために彫刻をする・・・
これが腰元彫りでございます・・・

この人の右に出るものはいないというほどに大変な名人だったそうで・・・
五十何歳かで亡くなりまして、矩随(のりゆき)という倅さんがいる・・・
おとっつあんが全盛の時には結構な家に住まってそして、大勢の弟子にちやほやされて育ってまいりました・・・
おとっつあんが亡くなる途端に弟子はちりじりバラバラになっちゃって、家は人手に渡ってしまう・・・
今ではおっかさんと二人で八丁堀の長屋住まい・・・
ほそぼそと暮らしておりました・・・
たいへんにこの矩随さんという人は親孝行でございまして、おっかさんに苦労をさせまいというので、一生懸命に彫って仕事をしている・・・
ところが・・・
この矩随さんという人が生まれついての不器用な人で、そこへもってきて仕事の才がないと言いますか、道が合ってないと言うんでしょうか・・・
どうも一生懸命努力をしているんですけれども、ちっとも腕の方が上がらない・・・
まずい・・・おとっつあんが上手い、倅がまずいというのは・・・嫌な話でございまして・・
もう下手を通り越してひどいというやつですな・・
一生懸命習い覚えた腰元彫りを一生懸命やってる・・
それでその時分、腰元彫りをやっている人達はずいぶん仕事があったそうで・・
本来は今言った通り、刀に対しての仕事なんですけれども、それだけじゃなくて昔は煙草入れ、あるいは紙入れてえものを持つ・・
これに金具というものがちゃんとついております。そういうものにみんなこっていて、彫刻なんかがしてある・・・
ですから、色んな仕事が入って来る・・・
腕が良ければいくらでも儲かる・・・
ところが今言った通り、腕が良くないもんですから、始めのうちは義理でもって矩随さんが持ってったものを買ってくれていたんですが、駄作ばかりなもんですからとても買っちゃいられねえってんで、もう付き合いも何もない・・・
誰も買ってくれなくなっちゃった・・・
でもその中でたった1人の買い手はと申しますと、芝神明前で袋物屋を営んでおります「若狭屋甚兵衛」という人でこの人がたった一人買ってくれている・・・
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矩随さん、今日は何を持ってきたんです?

はい・・・ありがとうございます・・・

今日はあの、この・・・小柄の柄に猪を彫ってまいりました・・・

猪?・・・これが?・・う~ん・・・

お前さんにこれを猪と言われるとね、あぁそうなのかなと一生懸命に思って思って思い込んでみると少~し猪らしいところがある・・・

それ聞かないでいきなりひょいと見るってと、どう見たってこれ豚だよ?

えぇ?矩随さん・・・お前さんもどうも困った人だねぇ・・・

もう少しなんとかならないのかい?ちっとも腕が上がらないじゃないか・・・

あたしはお前さんがなんとかなるんだったら一生懸命なんとかしようとこっちも・・・

ってそう思ってるんだけれども・・・

・・・ずいぶんと長いことやってるんだけどなぁ・・・

少しは腕が上がってこなくちゃいけないんだ・・・

そりゃあね、お前さんのおとっつあんのね?矩康さんのようになんてそんな高望みはあたしはしないんだよ?

なんでもいいからもう少し形になるようになんとかならないのかぁ・・・

本当にお前さんは・・・まずいねぇ・・・

あいすいません・・・

こういうことは謝ったってしょうがないんだよ?

これねぇ、よ、よくこんなものを彫ってねえ!

人の所に持ってこようという料簡になれるのがあたしは不思議でしょうがないんだ!

お恥ずかしゅうございます・・・

でも・・・他じゃどなたも買ってくださいませんので・・・

こちらさまだけが頼りなんで持ってくるんです・・・

そりゃそうだよ・・・買わないよ?

こんなものは!えぇ?

あたしだって本当は・・・買いたく・・ないんだよ?

だけどお前さんがちゃんと持ってくれば、あたしはいつだって二朱でちゃんと買ってますよ?

だからうちの戸棚の所開けてごらんなさい?

箱の中にお前さんの作が山のようにある・・・

邪魔でしょうがないんだ、なんとか他に使おうと思うんだけれども、うちでこしらえてるもんに悪いがお前さんの金具は合わないんだ・・・ぶち壊しになっちゃう・・・

安いもんだったらことによるってと合うかもしれないから、そういうものを作ってる、扱っている所へなんとか回そうとして

うちに出入りの人に、これ持ってってくれないか?って言ったら、『いやとても買えません』

いや買わなくてもいいんだ!ただでもいいから人に持ってって見せておくれって言ったら、『いえ!とんでもございません!ただでも困ります!』って誰も持っていかねえんだよ・・・

ただでも困るような代物をあたしが二朱で買っているのは、お前さんの芸に、仕事に対して買っているんじゃないんだよ?

お前さんて人は本当に親孝行でおっかさんをね、たいそう大事にする・・・

はたで見ていても気持ちがいい!

その奉公の務めに対してあたしは二朱というお金を払っている・・・こりゃあ義理だよ?

義理ってのはそうは長くは続かないもんだ・・・もうどうにもならないんだから・・・

お前さん・・・まだ料簡は変わりませんか?

・・・と申しますと?

ほら、こないだ話をしたじゃないか、いつだったかお前さんが狸を彫ってきた・・・

あたしが見るとどうしても河童に見えるんだ・・・

これは河童だね?って聞いたら、狸ですって言うんだ・・・

他の者にも見せたよ?みんなが河童だってのにお前さん1人が狸だ狸だってんだ・・・

そりゃあお前さんもあの時は意地があるから狸と言い張ったんだろうけど、これを狸と言うような目じゃろくなものは彫れないんだ・・・

「見込みがないからあきらめなさい、なにか他の商売を始めなさい」とあたしはそう言ったじゃないか!

それというのがねぇ、人間というものは自分で生きていく・・・

食べるものだけは自分で稼がなくちゃいけないもんでしょ?

それをねぇ、お前さんは自分で食べるのも自分で稼ぐ腕がなくって人に頼って、人に迷惑をかけて自分だけがのうのうと生きているというのは・・・

これは図々し過ぎやしないかい?

矩随さん・・・ねぇ?

だから他のもんをやってごらん!?彫り物はもうだめなんだから!

ね?他の物をやるってと何かお前さんに向いているものがあるかもしれない・・・ねぇ?

例えば・・・大道商人でもなんでもそうだい!

食うだけは稼げるんだよ!お前さんこれやってると食うだけも稼げない!

ね?だからよしなってんだよ・・・

お前さんそれ諦めてね?なんか商売を始めようとする気になったんだったら、あたしはお前さんのおとっつあんの世話になっているから御恩返しのつもりで商売の元手というものは出してやるんだから・・・

どうだい矩随さん・・・

・・・へぇ・・ありがとうございます・・・

おっしゃることはよく分かるんでございます・・・

旦那・・・あたしは彫り物師じゃだめですかね?

だめだよぉ!いけない!って言ってんのにまだ分かんないかねぇ!

どういったらいいんだろうねぇ・・・お前さんは・・・

あのねえ、そりゃあ世間ではお前さんのことみんなで親孝行だとか言うよ?

確かにお前さんはおっかさんを優しくしている大事にしている結構だ・・・

だけどおっかさんには優しいけれども、おとっつあんにはどうだい?

亡くなったお前さんのお父さん、名人・矩康という人の遺灰には泥を塗ってるんだよ?

お前さん親孝行のつもりで一生懸命腰元彫りだなんてんでやってるけど、それが親不孝になってんのがお前さん分からないかい?

よしなってんだよ!やってるってとこれが良くないことなんだから!

おとっつあんのことにまで関わりが出てくるんだから!

ね?あの人の倅がこれかい?ってことになる・・・

だからよしなってんだよ・・・

どうしても商売替えが出来ないってんだったら・・・もう・・・あたしもなんにも言わないよ?

ただ、一言言おう・・・

死んじまいな

・・・え?

死になってんだよ!生きてたってしょうがない!

あたしがお前さんだったら死ぬよ?

死んだ方がね、人に迷惑がかからないしね、親孝行にもなるんだから!死んだ方がいい!

・・・はぁ・・・川にでも飛び込むかい、それとも、腹でも切るかい?

もっとも腹切るってと血が出て痛い・・・

お前さんにはとても出来なかろう、そうなるってと後はもう首をつるとか毒を入れるでもなんでもするんだねぇ・・・

えぇ!?どうする?

・・へぇ・・・

よく・・・考えさせていただきます・・・

そうかい、まあなんでもいいや・・・今日のこれはあたしがいただいておくよ?

はい、これ二朱あるから・・・持っていきなさい・・・

その代わりね!先に断っておくけれども、うちだって金のなる木があるわけじゃないんだよ?

この次来た時には買うかどうかは分からない・・・

それをよ~く考えて!ね?それ持って早くうちへ帰んな!

よく・・・考えさせていただきます・・・

おっかさん・・ただいま帰りました・・・

あぁおかえり!遅かったじゃないかさぁ、矩随・・・

今お湯が湧いたから、すぐにおっかさんお茶を入れてあるからね、すぐにご飯をお上がり?

・・・へぇ・・ありがとう存じます・・・

どうしたい?なんかあったのかい?

へ?

どうしたんだい?

へ・・・あぁ・・・いえ、何でもございません・・・

そんなことはないよ!?お前いつもと様子が違うじゃないか!

どうしたんだい!?え!誰かと喧嘩でもしたのかい?

それとも若狭屋さんで何かあったのかい?話をしておくれ!

いやぁ・・・そうじゃないんです・・・

どうも風邪を引いたらしくってちょいと熱っぽいもんですから・・・

おっかさんにはなんか変にうつるんじゃないかと思います・・・

何を言ってるんだよ・・・お前のあたしは母親じゃないか!

お前のことはなんでも分かるんだよ?

具合が悪くて変に見えるのか、それともなんか考え込んでるのか、そんなことはよ~く分かる!

隠したってダメだよ!えぇ!話をしてご覧!

お前さんとおっかさん二人で隠し事は嫌だよ!話をし!何があったんだい!

・・・えぇ・・それじゃあ・・お話をいたします・・・

・・・今日・・・若狭屋さんで・・・

死ね・・・って言われました・・・

・・死ね?・・・どうしてまた?

若狭屋さんがおっしゃることには、「自分が生きるのに食べるのだけは自分で稼がなくちゃいけない・・・

それで、お前は彫り物の道じゃとてもじゃないが、稼ぐことができないから何か他の商売をやれ」ってこうおっしゃるんです・・・

お前さんが腰元彫りに一生懸命になってるってと、おとっつあんの遺灰に泥を塗るんだって・・・

だから他の商売替えをしなくちゃいけない・・・

それができないようだったら死んじまえ・・・って言われました・・・

その方が親孝行だってんです・・・

いえ、若狭屋さんのおっしゃることはいちいちごもっともなんでございますが、ただ・・・

あたしは他の商売なんかとても出来ません・・・

といって、彫り物師としてこれ以上、腕が上がるとも思えない・・・

ですから・・・おとっつあんに申し訳がないもんですから・・・

死んであたしは・・・お詫びをしようと思っております・・・

今夜あたしは首をくくって死んでしまうつもりでございます・・・

おっかさん・・・どうか先立つ不孝を・・・

お許しください!

・・・そうかい・・・よくわかったよ・・・

おっかさんはお前さんにねぇ・・・

おとっつあんの跡を継いでもらって、立派に身を立ててもらいたいと思ってたんだがやっぱりお前には無理だった・・・

おっかさんもかねがねそう思ってたんだよ・・・

だけどお前さんが一生懸命仕事をしている姿を見て、おっかさんはそんなことを言えなかったよ・・・

よくぞ若狭屋さん言ってくださった!お前さんもよく覚悟してくれた!

偉いよ!結構です!

お死になさい・・・ね?

どうやって死ぬって?

うん、そうかい、分かった・・・

お前は元々不器用な質だから、やり損ねるといけないからおっかさんがしっかり支度をしてやるから・・・待っておいで!
気丈なおっかさんがあるもんで、細引きを梁(はり)にかけて、しっかりと結んで踏み台を持ってきてその下に置いた・・・

さあ、支度ができた・・・

この踏み台の上に乗っかってね、紐に顎をかけてその踏み台をひょいっと返すんだ・・・

それでいいんだよ?

さあ、しくじるといけないから踏み台に上がって様子を見てごらん?

ふらふらふらふら危ないねえお前・・・

大丈夫かい?しっかりしなさいしっかり・・・

いいかい?首にかからないうちに倒れちまうってとお前怪我をしますよ?

死んでしまえば痛いも何も分からないけれども、生きてるうちに怪我をすると痛いから・・・

大丈夫かい?どうだい、紐の寸法はそんなもんでいいかい?

・・・へえ・・・初めてのことですので、よく分かりませんが・・・

こんな見当でよろしいかと思います・・・

そうかい・・・さあ、それじゃおっかさんはお前が死ぬのをここで見てるから・・・

その気になったらいつでもいいからおやり・・・

・・へぇ・・・

はぁ・・・おっかさん・・・ありがとうございました・・・

ご不幸の断、お許しください・・・

ふぅ・・・はぁっ

矩随!お待ち!・・・ちょっとお待ち!・・・

ゆっくり紐を外すんだよ?

降りなさい・・・そこへお座り・・・

こんな時にお前に物を頼んでは申し訳ないけれども、おっかさんに何かお前の形見を・・・残してもらいたいんだよ?

形見でございますか?

おとっつあんに先立たれて、またお前に死なれてしまうとね、おっかさんは1人っきりになってしまう・・・

真に寂しいから、何かお前の形見を彫ってもらいたい・・・

・・・へい、分かりました・・・どんなものがよろしゅうございましょう?

おっかさんは観音様をご信仰だから・・・観世音を彫っておくれ?

丸彫りにしてね・・・三寸くらいのお身丈がいいね・・・

それをおっかさんは毎日拝んでいるから・・・

いいかい?お前がおっかさんに残してくれるたった一つの形見なんだ・・・

一心に彫っておくれよ?

へい・・・承知致しました!・・・
もうこれが刀の取り納めだと思いますから裏へ行くってと、着物を脱いで裸になって、井戸端でもって、ばぁー!っと頭から水を五、六杯浴びて体を清めるってと、仏壇の前に座って一生懸命一心不乱におとっつあんの遺灰に手を合わせて拝んでいるうちに体中に気力がみなぎってくる・・
いまだ!と思って、細工場に入って、もう一生懸命仕事にかかる・・・
疲れてくるってと、その場につっと伏せてとろとろっとする・・・
はっ!っと気が付いて見るってと、おっかさんが一生懸命拝んでいてくれるから、こりゃいけない!ってんでまた仕事にかかる・・
また疲れる、その場に伏せる、はっと気づく、おっかさんが仏壇の所に手を合わせてくれる・・・
いけない!ってんでまた仕事にかかる・・・
これを繰り返し繰り返し、七日七晩飲まず食わずでもって一生懸命に仕事をいたしました・・・
八日目の朝に、ちょうど・・なんとか彫りあがった・・・
昼ちょいと前に、観音の像を手にして矩随がそっと細工場から出てきたときにその姿はまるでこの世の物とは思えません・・・
浜野矩随を聞くなら「三遊亭圓楽」
三遊亭圓楽の「浜野矩随」は、職人の意地と誇りを描いた感動的な一席です。矩随の人柄と葛藤を、圓楽が巧みに表現し、聴く人の心を揺さぶります。人間ドラマの深さと温かさが詰まった、名作中の名作です。
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はぁはぁ・・・おっかさん・・・

長らくお待たせをいたしました・・・

おっかさんが、あたしが仕事をしている間一生懸命に拝んでいてくれたんで、おかげをもちまして、なんとか・・・

観音様彫り上げることが出来ました・・・ありがとうございます・・・

不出来ではございますが、これはおっかさんに残す矩随のたった一つの形見でございます・・・

どうぞ・・・

・・・そうかい・・できたかい!

ありがとう!

・・まぁ・・・はぁ・・よくできたじゃないか!

拝見しますよ・・・

まぁ見事だねぇ!結構ですよ!結構です!

・・・あの、おみ足の裏にお前の名を入れておくれ、矩随という名をちゃんと刻んでおくれ!

刻んだかい?それじゃあそれで結構だ・・・

・・はい・・それじゃあおっかさん・・・

長い間ありがとうございました・・・これであたしは・・・

あぁ、ちょっとお待ち・・・ちょっとお待ちよ・・・

支度はしてあるんだ、いつでも死ねるんだからそう慌てて死ぬことはない・・・

お前に・・・疲れているところ申し訳ないが・・・

いま一つ、もう一つ頼みたいことがあるんだけど・・・

・・・なんでしょう?

この観音様を若狭屋さんに持ってって・・・売っておくれ?

・・・へ?

だ、だってこれはあたくしがおっかさんに残した、たった一つの形見じゃありませんか!

それはお前にはすまないと思うけれども・・・

おっかさんだってお前に亡くなられたら、もう何にもないんだから!

まとまったものがいるんだから、すまないがこれを持ってって・・・売っておくれ!

・・いやぁでもあたくしは若狭屋さんにはもう行かれません・・・

こないだあれだけお小言をいただいて、また顔を出せば「まだお前はぐずぐずこの世にいるのか」と叱られてしまいます・・・

・・もうあたしの彫ったものをあのうちでは買っていただけませんよ・・・

そんなことはどうでもいいんだ!

・・・いいじゃないか!見せに行くだけなんだから!

とにかくこれを旦那にお見せしな!くれ!

旦那よ~くご覧ください!と言って見せればいいんだよ!おっかさんの頼みだ!

そうするとね、旦那様は・・たぶん・・買って下さると思う・・・

その時にね・・・あの旦那のことだからこれを見て、二朱とは言わないよ?

「いくらだ?」とおっしゃるはずだから、『五十両一文欠けても売れません』とこう言いなさい・・・

と、とんでもございません!ただでもあたしの物は誰も持っていかないんです!

五十両だなんてそんなこと言ったら、お前は気が狂ったのだと笑われますよ!

大丈夫だから!心配ないから!心配するんじゃないよ・・・

ね?いいかい?とにかく五十両・・・一文欠けても売っちゃいけませんよ?

疲れてるところ本当にすまないけれども・・・いいかい?

それで、おっかさんお前が帰ってくるまで重湯をこしらえて待ってるからね?

今はないからお水で我慢しておくれ?
湯呑になみなみ一杯ついで・・・

さっ、お飲み!

・・・ありがとうございます!
矩随は飲んだんですけれども、何にも腹に入ってないところへいきなり水が入ってったもんですから、半分飲むのがやっとでございます・・・

・・・はぁはぁ・・おっかさん・・・もうこれ以上は飲めません・・・

・・そうかい・・それじゃあおっかさんが残りの半分はいただこう・・・

・・・ごく・・ごく・・ごく・・・はぁ・・・おいしいねぇ・・・

さっ、これでいいよ、いってきておくれ・・・・

あぁ、お前長いこと座りっぱなしだったんだ、足腰が弱ってしまっている、あの草履を履いていった方がいいよ?

それからあそこにおっかさんの杖があるからいいかい?それを持っていきなさい、うん・・・

大丈夫かい?気を付けて行ってきな・・・

へい・・・

あ、あの矩随や!・・・

へい・・・

・・・若狭屋の旦那に・・・よろしく言ってくださいよ・・・
杖にすがってふらふらふらふらしながら自作の観音像を懐に入れて、芝神明前へ行く・・・若狭屋甚兵衛の店先へ・・・

お!おい!矩随さんが来たぜ!

こっちへ上がっとくれ上がっておくれ!いいから上がっとくれ!

いやぁ!こないだはすまない!勘弁しておくれ?嫌なこと言っちゃって申し訳なかった!

いやあの時ちょいとね、商売のことでむしゃくしゃしていることがあってな、そこでちょいとやっちゃったんだよ・・・

あんまり気分の良くない所へお前さんが来たろ?ついついお前さんに当たっちゃったんだ勘弁しておくれ、この通りだ許しておくれよ?

嫌なこと言っちゃったな!後でもってねぇ!もうかみさんにしぼられたよ!

『なんでああいうことを言うんです!大きなお世話です!よその人様のことじゃありませんか!それを死ねだのなんだの!そんなことを言うもんじゃありません!もし間違いでもあったらどうするんです!?』

って言われてあたしも気になってねぇ!

今夜あたりひとつ様子を見に行こうとそう思っていたところなんだ!よく来てくれたなぁ!!

・・はぁはぁはぁ・・旦那ぁ・・・恐れ入りますがもう少し声を低くしてください・・・

お腹に響いてたまんないんです・・・

そうかい?どうしたんだい?

あの・・実は・・・これを一つ見ていただきたいんです・・・

あぁ~!仕事をしてきたんだね?わかったわかった!いいよいいよ買いますよ!

あの時は言葉のはずみであんなこと言ったけど・・・これからは仕事をしたら必ず持ってきなよ?

他へ持ってっちゃいけないよ?まぁ他に持ってったって売れやしないだろうけどね・・・

あたしがどんどん買ってやるからいいんだよ!そらぁ構わないがぁ・・・

ん~?・・・珍しいものを持って来たねぇお前さん・・・

へぇ~!観音様?・・・そして丸彫りじゃないか・・・

ちょっと拝見しましょ・・・へぇ~どうも・・・

・・・ん・・う~ん・・・いやぁ・・どうも・・・

さすがだねぇ・・・矩随さん、これどうしたんだい?

おっかさんが若狭屋の旦那に見せろとこうおっしゃいまして、持ってまいりました・・・

旦那・・・よく・・・ご覧くださいまし・・・

見てますよ・・・うぅ~ん・・・

ただ「見せろ」ってそう言ったのかい?

「買っていただけ」とおっしゃっていました・・・

そうかい・・・いただきましょう!

買っていただけますか!?

うん!いくらだい?

・・えぇ・・それがちょっと・・・申し上げにくいんでございますが・・・

分かってる分かってる・・・分かってるよ・・・

お前さんのおっかさんのことだ・・・

「五十両びた一文欠けても売れません」ぐらいのことは言ったろ?

へ?旦那立ち聴きなさってた?

いやそうじゃない・・・

お前さんのおっかさんという人はおとっつあんの側にいて仕事を手伝ったりなんかして、色んなものを見ているから目が肥えている・・・

色んなものの大抵の値踏みができるんだよ!ね?

あたしはそのおっかさんと長い付き合いだ!

だからおっかさんがどういう値をつけるかおおよそその見当があたしにもつくんだ!

これはそう言ったに違いないとあたしは思ったんだ!

どうだい?五十両とふんだがそうじゃないかい?

おっしゃる通りでございます・・・

そうかい、買いましょ!

いやぁ高いことはない!安いくらいだ!

帰ったらおっかさんにね、「若狭屋が喜んでいた」とこう伝えておくれよ?

いやぁうちにも以前は・・・おとっつあんの物がいくらもあった・・・

ところが、おとっつあんの物ってのは値がいいからそれに惚れてみんな売っちゃったんだ!

手元になくなって「あぁ!いけない!とっておけばよかった!」と後悔をしてね・・・

それから一生懸命に方々廻してなんとか買おうと思うんだけれども、もうどこでもおとっつあんの物は手放さないんだよ・・・

矩康作と書いてあるだけで誰も手放さなくなっちゃった!

それからあるとき、おっかさんの所へ行ってね?

おっかさん、矩康作はもうありませんか?とそう言ったら「みんな手放してしまってなんにもありません」と断られてしまってね・・・

あたしはがっかりしてたんだ・・・もう手に入らないと思っていたから・・・

ほど経ってこれをお前さんに持たせてよこしたというのは、大事なおとっつあんの形見から今まで大事にしまっておいたに違いない・・・

それをよんどころなく売ろうというんで手放すんだ・・・

それは情けなかろうが、あたしはね・・・

せっかくおっかさんがそう言ってくれてんだから遠慮なく!買わせていただきますよ!ありがとう!

矩随さん、これをよくご覧なさい!?

この刀の扱い方!刀の入れ方!これがなんともいえないじゃないか!

思わず知らないうちに、どことなくありがたいからひとりでに頭がこう下がるよ?手を合わせたくなるだろ?

これはなぜかと言うとねぇ、これはお顔なんだよ?お顔!

お目の入れ方!これが難しい!仏像でもって一番難しいのがこのお目の入れ方!

あんまりこの愛嬌がありすぎてもいけない、といってなくてもいけない・・・これの程が難しいんだ!

だから知らず知らずのうちに頭がさぁ~っと下がるってやつだよ?

凛としている!そして優しげがある!たまんないなぁ!どうだいこの丁寧な仕事!

どっか・・・

・・・矩随さん・・・

お前さん・・・なんて馬鹿なことをしたんだい!

・・・矩随という名を入れたな?

へぇ・・・入れました・・・

なぜこんなことをするんだい!いくらおとっつあんの物だってこんなことをしちゃいけないじゃないか!

どうしてそんなことをする前に自分の腕を磨こうと思わないんだい!

そんなことをして世間の目をごまかそうったってそうはいかない!

見る人が見ればこれは!矩康作ってことはすぐに分かるんだよ!?

馬鹿だねぇ本当に・・・せっかく五十両のものが・・・

ただの二朱になっちゃったじゃないか!

旦那!?

旦那はなんですか?

この観音様は、矩康作だってそうおっしゃるんでございますか!?

そうさ!

・・・ありがとうございます・・・

それであたしはもう思い残すことはなんにもありません・・・

ありがとうございます・・・

旦那・・これね・・あたしが彫ったんです・・・

嘘をつけ!お前がこんなものを彫れるわけないでしょ!

狸か河童か分からないようなものを彫ってくるようなやつにこんな仕事ができるわけがないじゃないか!!

いえ本当なんです!本当なんです旦那!

あたしはね、こないだ旦那に小言を言われてすっかり死ぬ気になって帰りました!

おっかさんに内緒で首をくくろうと思ってたんです!

ところがおっかさんに見破られたんです・・・

話をしましたところ「よくぞ若狭屋さんはそう言って下さった・・・お前もよくぞ覚悟を決めてくれた、その気になってくれた!」と褒めて下さいました!

・・・おい・・・お前何かい?

おっかさんにあの話したの?

馬鹿だねぇ!今度はあたしがおっかさんに会えないじゃないか!

でどうしたい?

死のうと思ったその前に「あたしになにか形見をひとつ残していけ」と言われて、観音様が言いというので・・・

あたしは七日七晩飲まず食わずでもっておっかさんに残す置き土産として一心不乱にこれを・・・

彫ったんでございます!

そうかい!

・・・へぇ~!これが!お前さんが彫った!?

いやぁ~恐れ入ったねぇ・・・悪かった悪かった・・・

勘弁しておくれこの通りだ!まさかお前さんの物だとは思わないから疑ったんだよ!

はぁ・・・そうかい・・・

知らず知らずのうちに蓄えられていた技というものがお前さんが死ぬ気になった時に、いっぺんに出たんだぁ・・・

おっかさん喜んだろ?

はい!

おっかさん喜んでくれまして「とにかくこれを若狭屋さんに見せろ、とにかく持っていけ!」と言われてあたしは持ってきたんでございますよ!

出掛ける時におっかさんが「ちゃんと重湯をこしらえておいてやる、今はないから水で我慢をしろ」と言うんで水を一杯あたしに飲ましてくれました・・・

とてもあたくしは一杯飲みきれないんで、半分飲んで、そしたら残りをおっかさんが美味そうに飲んでくださいまして・・・

足元のことまで気を遣ってくれて「どうか旦那によろしく言っておくれ」と涙ながらに・・・

足元のことまで気を遣ってくれて「どうか旦那によろしく言っておくれ」と涙ながらに・・・

あたしを門口のところまで送ってくれたんでございますよ!

なに!お前さんが残した半分の水を飲んで!?

涙ながらにお前さんを送り出した!?

おい・・・矩随さん!ひょっとするってと、お前さんのおっかさん・・・

お前さんの代わりに・・・ぶら下がるかもわかんないよ!?

すぐにうちへ帰りなさい!!あたしも後から行くから!
さあ矩随はもう無我夢中でうちへ飛び込んできた・・・

おっかさーーーーん!!
ふっと見るってと、時すでに遅く、矩随の代わりに梁から・・・

おっかさん・・・なんてえことをなさいました!

おっかさん!・・・おっかさん!

喜んで下さい!聞いていただきたい!

あの若狭屋の旦那が、あの観音様を・・・

矩康作と間違えて五十両で買って下さるんでございます!!

これをあたしはおっかさんに聞かせとうございました!!

おっかさーーーん!!
母親の亡骸にすがって、ただただ泣くばかりでございます・・・
そこへ若狭屋が入って来て、万端きちーっといたしまして、野辺の送りも済ませて、矩随を自分のうちに引き取りまして・・・
細工場を与えて一生懸命仕事をさせた・・・

さっ・・矩随さん・・・

お前さんのおっかさんという人はお前さんになんとか!励んでもらおうと思って自分から亡くなったんだ・・・

そのことを思ったらね、まあ一生懸命にやって、この道でなんとか世に出ないってとおっかさん浮かばれませんよ?

一生懸命やってくださいよ?

はい!かしこまりました・・・
というんでこれから矩随が死んだ気になって一生懸命に仕事をする・・
腕は上がる・・・人間ちょいとしたきっかけで大~きく伸びるもんでございまして・・・
今まで出てこなかった才能がいっぺんに出たんでしょうか・・・
これをまた若狭屋三の方が商売ですから、うまい具合に売りさばく・・・
どんどんどんどん評判が広まりまして、近頃じゃあっちからもこっちからも注文が殺到しまして・・・
もう今まで見向きもしなかった人達がとにかく矩随作でなければいけないなんというんでね、ずいぶんいいかげんな話があるものですけれども・・・

いかがでございましょう?ひとつ矩随先生に彫っていただきたいのですが・・・

いやぁもう今ね!注文がいっぱいでつかえちゃってるんですよ!

まあ今からご注文なさるってと、来年の春あたりですかなぁ・・・

そう長いことは待てませんがねぇ・・なんかありませんか?

おたくとは長い付き合いですから!ずいぶん色んなものを買ってらしたんでしょ?

とにかく『矩随』という名が入ってればそれでいいんですから!!

そうですか・・それでしたらひとつ残ってますよ・・・

これねぇ、小柄なんですが、この柄にね?

猪が彫ってあるんです・・・これでよろしいですか?

え?ちょ、ちょっと拝見させていただきます!

あ!確かに『矩随』としてありますなぁ!

猪!?へえ~!・・へぇ・・・

・・・これ豚じゃないんですか?・・・え!?豚でしょ?

あぁ~素人はみんなそう言うんですよ・・・

それは猪なんです!

ちょっと見ると豚ですけれども、じ~っと見ててご覧なさい?

猪に見えてきますから・・・

そうですかなぁ・・・どうみたって豚に見えるんですが、猪に見えてきますか?

・・あ・・あ!ああ!見えてきました!

うん、それが名人ですよ!
っていい加減な話がありましてね・・・人が色んなことをいいます・・・

たいしたもんだあの矩随さんという人は!

こないだあたしの知ってる人が鼠を彫ってもらったら、鼠が天井裏へ逃げちゃったってさぁ!

あたしの知ってる人なんざ、狼を彫ってもらったら、狼にすねをかじられたってよ!
なんてんで、色んな事を言ってどんどんどんどんこの評判が広まりまして、そのうちに温州松江の城主、松平出羽守様からお声がかかりまして、御供所に十六羅漢を彫ってもらいたいという注文でございます・・・
ところが矩随は鐘に刀をあてがったことはありますが、石にあてがったことがございませんので、いっぺんは躊躇をしたんでございますけれども、なにしろ賢人という噂の高い人からの注文ですから、「よし!一世一代の仕事だ!仕事をしよう」ってんで、仕事を引き受けて、無我夢中で仕事をして彫り上げる・・・
これが実に結構な出来でございます・・・
大変にお喜びになられまして、矩随にたくさんの褒美をつかわし、なおかつ名前がどんどんどんどん高まったと申します・・・
名工『浜野矩随』の苦心談の一席でございました・・・
浜野矩随を聞くなら「三遊亭圓楽」
三遊亭圓楽の「浜野矩随」は、職人の意地と誇りを描いた感動的な一席です。矩随の人柄と葛藤を、圓楽が巧みに表現し、聴く人の心を揺さぶります。人間ドラマの深さと温かさが詰まった、名作中の名作です。
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