まだ江戸と申しておりました自分に日本橋石町(こくちょう)に栄屋(さかえや)さんという大きな生薬屋さんがございまして・・・
旦那は、何年か前に亡くなったんですけれども、その後を引き継いだおかみさんが大変にこのしっかり者。
また人面倒見もいいところから、奉公人がみんなおかみさん、おかみさんといって店のために働いてくれるんで繁盛は一向に変わりません。
そこの一人娘でもってお若さんという、今年十七になりますお嬢さん。
これがもう栄屋小町と言われる大変な美人でございます。
もうそのお嬢さんがいるだけで、あたりが明るくなるというような大変な人でございます。
乳母日傘で育って何でも自分の思いが叶うという誠に結構なご身分で
お若伊之助を聞くなら「古今亭志ん生」
昭和の名人・古今亭志ん生は、「お若伊之助」を独特の語り口で演じ、怪談と落語の要素を絶妙に織り交ぜる。彼の演じる伊之助はどこかとぼけた味があり、シリアスな物語に軽妙な間を生み出す。志ん生ならではの脱力感のある語りが、悲劇の中にも粋な風情を醸し出す。
\Amazon Audileで聞けます/
※フルは↑の赤いボタンから1か月間無料でご視聴頂けます。

おっかさん、私、一中節のお稽古がしたいの・・・

ああ、たいそう流行っているそうだね~

うーん、お稽古すんのは構わないんだけれども、今店が忙しいからね・・・

お前の稽古に付いていける人がいないんだよ・・・

と言ってお前を一人でお稽古にやるのは、おっかさん心配だしねぇ・・・

うーん、ま、そのうちにいいお師匠さんがいたら、うちへお稽古に来てもらいましょう!
出入りの頭(かしら)でもって、に組の初五郎という男。で、これに話をすると、

そうでございますか!よろしゅうございますよ!

知ってますよ!良い師匠をね!

まぁあの、あっしがちょいと目をかけてるんですがね

弟同然に可愛がっとる男なんでね、えぇ、菅野伊之助ってまして

これがなかなか良い師匠でございまして!

ちょいと待っとくれよ、えぇ頭(かしら)・・・

男のお師匠さんはね、ちょいと具合が悪いよ?

だってさ、お若はまだ婿取り前じゃないか、何か間違い事でもあって・・・

いえいえいえ!そらぁ、そらぁ大丈夫だ!

えぇ、元侍でしてね?

それだけに大変に物堅いところがありましてね?

曲がったことは大嫌いというような真っ正直な男なんでね!

それにおかみさん、あっしが間に入ってるんですからね?

そんな心配はいりませんよ!

あっしの方からもお願いします!

そいつをここへね、お稽古へ来させてやってくださいな!

こちらにお出入りにできりゃ、どんなに当人にとって励みになるか分かりませんから!

あっしからお願いしますからどうぞよろしくお願いします!

そう?

まぁ頭(かしら)がそういうなら、じゃあそのお師匠さんにお願いしましょう・・・
というんで菅野伊之助というのが稽古に来るようになった 。
これがまた大変にいい男でございます。すらすらっとしておりまして、もう男が見てもハッとする ようないい男でございます。
この片っ方の方が今小町と言われている、もう色気盛りのお嬢さん。
この二人がひと間に入りまして・・・二人っきりでもって、向かい合って・・・
危ないですね、こういうのは。おかみさんが心配した通り、もうあっという間にそういうことになる・・・
母親は敏感でございますから、これはおかしい、近頃、稽古中に三味線の音色も歌声も聞こえてこない、ひょっとするとひょっとするかしらなんという・・・
次の稽古の時にこう様子を伺っとると、何も聞こえてこないからそ~っと行って、お若さんの部屋の中を覗くってと伊之助が三味線を抱えてないで、お若さんを抱えてる・・・
これはいけない、大変なことになったってんで、すぐにこれを頭(かしら)に話をする。

そうですか!

あいすみません・・・とんでもねぇ野郎だ!

分かりました!あっしはね!あの野郎を半殺しに・・・

いやいやいや、いけない、いけない・・・

いけないよ、そういう乱暴なことしちゃいけないよ・・・

ええ、そんなことをするってと、かえってうちが恨まれるじゃないか

で、それよりね?

ここに二十五両というお金があるんだけど・・・

これをあの伊之助に渡して、もうこれきりという

いえいえ!そんなことしなくったって、あっしが一言いえば!

いいや、そうではないんだよ

あとでごたごたするのが嫌だからね、こういうことはきっちりしておきたいんだ・・・

そら伊之助ばかりが悪いんじゃあない、お若いにだって罪がある・・・

気がつかなかった、私だって悪いところがあるんだから

いいかい、ね、頭(かしら)、お前さん頼むよ・・・

そうですか・・・

誠にあいすみませんでございます・・・

本当に何と言ってお詫びをしていいからよく分かりませんが、どうぞ一つ勘弁しておくんなさい・・・
というんで、この金を持ってって伊之助に渡して

いいか!もう二度とお若さんに会っちゃならねえぞ!

栄屋さんに行くんじゃねぇぞ!
とコンコンと意見もした。伊之助にしてみりゃ意見をされて、手切れをいただいたんですから、分かりました、承知しましたというんで納得したんですが・・・
しないのはお若さんのほうですな・・・
このまんま放っておくと大変だから、ほとぼりの冷めるまで熱がぐっと上がってるから、その熱が下がるまでどっか安心できるところに預けておこうというんで。
根岸御行の松の近くでもって今井田流の道場を開いております、長尾一角という剣術の先生がいる・・・
この人はこの栄屋のおかみさんの義理の兄さんみたいな人で、お若さんにとってのおじさんにあたります。
ここならば心配はなかろうというんで話をするって、

あぁよかろう、離れを使いなさい!
そこにお若さんが預けられた。
たまに行くのはよろしいんですけれども、今まで賑やかなところにいた人が急にこちらへ長くいるとなると、寂しくて寂しくてたまらない・・・

早く石町に帰りたい伊之助さんに会いたい・・・
というので、その気持ちが講じてとうとう患ってしまった。
この患ったやつはお医者様にお診せしたってしょうがないですな・・・草津の湯治場に行ったって治りゃしない。
もう仕方がない、寝かしたまんまというやつですね。そうこうするうちに、月日の立つというのは早いもんで、お若さんがここに預けられてからちょうど1年経ちました。
弥生の半ばでございます。庭の桜は満開でございまして、近頃はお若さんが寝たり起きたりの毎日。
昼過ぎにさぁっと雨が1つ降りまして、それが上がる。日の暮れ方になって入り江の鐘がゴーンとなり始める・・・
お若さんが縁側へ出てまいります。島田の根が抜けて、がっくりと傾いている、髪の遅れ毛が二筋三筋こう頬にかかっている・・・
小紋ちり綿の着物に鴇色(ときいろ)のひのきを胸高にぎゅっと締めて、柱に寄りかかって花を見ている姿。もうまるで絵のようでございます。
さあっと風が吹いてまいりまして、桜の花びらが縁側にすっとこう、舞ってくる・・・
このひとひらを手に取って、

これを見るにつけ思い出すのは去年の今時分・・・

ここに預けられてからというもの、誰も来てくれない・・・

ばあやでも来てくれれば話し相手になってもらえるのに・・・

人をよこせば私が伊之助さんと便りをするかと思って、おっかさんは誰もよこしてくれない・・・

それに伊之助さんだってそうだ・・・

一年も会っていないんだから・・・

人に尋ねれば私の居所が知れようものを、何にも便りがない・・・

ひょっとすると他にます花ができたのかしら・・・

そんなことになったら私はもう生きてはいられない・・・

川へ身を投げて死んでしまう・・・

それにしても伊之助さんに会いたいものだ・・・
とひょっと向こうを見るってと、裏にしきり、ざっとこう生垣がございます。
その向こう側に男が後ろ向きに立っている。
藍微塵(あいみじん)の着物に茶献上の帯を締めまして、尻をぐっと高く端折って、羽織を小さくたたんで懐に入れて、手ぬぐいにほっかむりをして、腕組みをして考え込んでいる男の姿がどっかで見たことがある・・・
お?ひょっとすると!と思うから、お若さんがパーンと飛びだしてたったたったたったと駆け出して、垣根ごしに

お前は伊之さん!?
と覗くってと、間違うことなく伊之助でございますから。急いで木戸を開けてさっと中に引き入れる。

会いたかったぁ・・・
というんで、すがりつく。猪之助はただお若さんの背中に手をかけてじっと顔を見ているだけで、何も申しません。

ああ、東三郎!

いかがいたした?お若に粥を食べさしたか?

早くしないといかんぞ?

あぁ旦那が来ます・・・あの、誰か来ますから見られると具合が悪い・・・

あの、四つの鐘を合図にまた来てくださいな・・・

裏木戸を開けておきますから・・・
さあ、これから毎晩伊之助が通ってくるようになった。で、しばらく経つってと、このお若さんの体の格好は変わってきましてね。
お腹の方が、こうずっと前に先出してきて。これはどんな武骨な堅実の先生だって気がつきます。

これはいかんな・・・

お若は懐妊をしている様子だ・・・

門弟のものと通じたか、あるいはまた表から通って来るものがいるか・・・

いずれにしても油断がならん・・・
もう手遅れなんですけどもね。さあ、その晩から気にしている。
夜過ぎになるってと、お若さんの部屋の方から何かひそひそひそひそと話し声が聞こえてくる・・・
ちょいっと見ると人影が二つ。そ~っと忍んでって中を見ると、前に一度栄屋で会ったことのある菅野伊之助がおりました。
大変に仲良く語らっているんで、おのれ!飛び込んで一頭の松に斬り捨てようと思ったんですけれども、まあ、間にこの初五郎という男が入っているから、今夜このまんま。
あやつを斬る分にはいつでも斬れるからというんで、そのまんまあくる朝になりますってと、早くに初五郎の元へ人をやりまして・・・
お若伊之助を聞くなら「古今亭志ん生」
昭和の名人・古今亭志ん生は、「お若伊之助」を独特の語り口で演じ、怪談と落語の要素を絶妙に織り交ぜる。彼の演じる伊之助はどこかとぼけた味があり、シリアスな物語に軽妙な間を生み出す。志ん生ならではの脱力感のある語りが、悲劇の中にも粋な風情を醸し出す。
\Amazon Audileで聞けます/
※フルは↑の赤いボタンから1か月間無料でご視聴頂けます。

お頼み申しやす!お頼み申します!

通~れ!いずれから?

えぇ、あたくし、に組の初五郎という者でございますが、お招きにあずかりまして取るものもとりあえず先生にお取り次ぎを願いたいんでございますが・・・

あぁ、左様でござるか、断じお控えよ・・・

先生、参りました・・・

何が参った・・・

おでん屋が参りました・・・

おでん屋が?

あ~なんですか、煮込みのおでんのお初を持ってきたと申しております

ねぎまもできるし、また、とろろもできるとこう申しております・・・

そのようなものを誂えた覚えはない!

何か聞き違えだろう?

いま一度聞いてきなさい!

ははっ!

え~、いま一度口上を

えぇ、あっしはあのね、に組の初五郎という鳶の者なんでございますが、お招きにあずかりまして取るものもとりあえず先生によろしくお取り次ぎを願いたいんでございますが・・・

あぁ、あ~左様でござるか・・・

断じお控えを・・・

え~聞いてまいりました・・・

おでん屋ではございません

に組の初五郎という鳶の者が参りまして、お招きに預かりまして取るものもとりあえず駆けつけてきた

先生にお取り次ぎ願いたい、とこう申しておりますが

あまり早口でございましたので、え、に組の初五郎というところ煮込みのおでんのお初。

お招きというところをねぎま、取るものもとりあえずをトロロと聞き違えまして・・・

よくそのように聞き違えることができるな・・・

あぁ、すぐにここへ通しなさい!

おぉ!頭(かしら)か!

さあさあ、こちらへお入りなさい!

どうもすみません!

よろしゅうございますか?

どうもごめんなすって、ごめんなすって・・・

どうもあいすみません、すっかりご無沙汰してしまいやして・・・

ちょくちょく伺わなくちゃならねぇと思ってるんですが、貧乏暇なしってやつでね

どうもあいすいません、ご勘弁願いたい・・・

で、お嬢さんご加減いかがでございます?

ん、まぁ相変わらず寝たり起きたりというような・・・

あ、お前たちもうよいぞ?向こうへ行ってなさい・・・

用があったら呼ぶから、そこをぴたりと締めて、うん・・・

あぁ・・・頭(かしら)・・・

もう少し前へ・・・

なんです?

え~実はな・・・

尋ねたいことがあって来てもらった・・・

ほぉ~、なんなんでございます?

う~ん、一年前に頭(かしら)の世話で菅野伊之助という・・・

いやああ、せ、先生!そら勘弁しておくんねぇ!

もうそれを言われるってと、あっしはもう面目なくってね、穴があったら入りたいくれぇなんだ・・・

とにかくあればっかりは、どうにもならなかった・・・

あっしが悪うございました、どうぞご勘弁を・・・

いやいやいや、済んだことをとやこう申すのではない・・・

その折に、栄屋から二十五両の手切れが出ていると聞いとるが、それは真か?

ええ、そうなんです

あっしはねぇ、そんなのはいりませんよって言ったんですがね?

おかみさんがね?こういうことはきっちりしとかなきゃいけねぇってんで出してくれたんで、それを伊之助に渡しました・・・

渡した?

しからば、手は切れておるな?

えぇ!切れてますよ!

う~ん・・・

その手の切れている男が、お若に会いに来ていたならば、なんとする?

そんなことはあるわけありません!

いや、そうではなくて、例えばの話で、もし来ていたならば

なんとする?

そらぁあっしは、野郎のこと半殺しにしてやりますよ・・・

えぇ!腕でも足でも折り曲げちゃう!

そうか・・・

しからば、伊之助の腕なり足なり、折ってまいれ・・・

え?

それってと、それってなんですか?

伊之助はここに来てるってんですか?

毎夜来ている様子だ・・・

昨夜も来ておった・・・

拙者がこの眼で確かめた

よっぽど飛び込んで一頭のもとに斬り捨てようと思ったが、間に頭(かしら)が入っているのだ

まぁ頭(かしら)に話をしてからでも遅くはないと昨夜はそのまま帰したが・・・

頭(かしら)・・・

お若はただの体ではないぞ?

伊之助の種を宿しているようだ・・・

ん?栄屋になんと申し訳をするのだ・・・

え?左様でございますか?

あの野郎また人に煮え湯を飲ませやがって!

えぇ!分かりました!あっしはこれから行ってね!野郎の腕でも足でも折って来ますから!

待ってておくんねぇ!
ってんで奴さん、根岸を火の玉のようにぱ~っと飛び出して、それから住まっておりますのは両国でございます、ここまで夢中で駆け出して参りまして・・・

おい!伊之!いるかぁ!

あぁ!頭(かしら)!

ばあや!頭(かしら)がお見えになったよ!お座布団を!

さあさあどうぞどうぞ!まあまあまあ!

いらっしゃいまし!何にいたしましょう?

お茶に致しますか?それともお酒に・・・

うるせぇ!

おぉ、伊之!

お前は俺になんの恨みがあって、そうやって仇するんだ?

え?恨み?仇?

一体、一体どういうことでございます?

とんでもございません!

私は恩ある頭(かしら)に恨みなんぞ持つわけはございません・・・

それに仇するなんて、と、とんでもございません・・・

そんなこと、私は何、いや、それあの・・・

こないだの栄屋さんのことは、大変申し訳ないと思っております・・・

ええ、でも、あれでも私の浮ついた気持ちから、軽はずみでああいうことになったんで、頭(かしら)に仇をするなんてことは少しも思っちゃおりません・・・

なんか悪いところがあったら、はっきりと言っていただきとうございます・・・

何をそんなに怒ってらっしゃるんですか?

おう、分かった!言ってやる!

お!お?え?おぉ!?あんだ?

俺とお前たぁな、兄弟分でもなければ、内輪の者でも何でもねえな、竹馬の友でも何でもねえ!

俺とお前と初めて会ったのはな市ヶ谷の八幡山の寄せ場だ!

お前の方から話をしてきた!

頭(かしら)、私はこれこれこういう者で、どうしても芸人になりたい

一中節で身を立てたい、師匠にみっちり稽古していただいて、自分でも稽古したつもりだ

だけど芸人になったら、なんとかして世の中に名前を知られたい

それのためにはただ芸をやっていてもだめなんだと

これからはご贔屓のお引き立てが何よりだ

頭(かしら)は色々とお付き合いが広うございますから、どうか私を一つ引っ張ってくださいましと

こういうことを言うから、お前の言ってることも大変気に入った、芸も聞かしてもらった

良い一中節だってんで、それから俺はしっかり気に入って、よし、本気でなんとかしてやろうと思ったんで

引き受けたからには半端なことはしたくはねぇやな

だからお前こうやってばあや一つ付けて、こうやって所帯を持ってるのを

黙って聞け!こん畜生!

まだ話は途中だ!な?いいか?その最中にだよ?

栄屋さんの方から話があった

あそこに出入りができたらお前これから先、どんなにお前の力になるか分からねぇってんで

よし!ってんで、すぐにお前を稽古にやろうと思ったらおかみさんが心配してね?

男の師匠はどうも困るってことを言うから

そんなことありませんよ?正直な男で間違ったことはしませんから大丈夫だと!

間に俺が入ってるんだから心配することはありませんよ?

ってんで無理にお前をあそこに稽古にやったんだ!

な?

そしたら稽古もしねぇで、つまらねぇことをしやがって!

俺は引っ込みがつかなくなっちゃったじゃねぇか!

しょうがねぇから半殺しにしますと!

そしたら話の分かるおかみさんだ!

そんな乱暴なことをしちゃいけないってんで、出さなくてもいい二十五両の手切れをお前に出してくれたんだ・・・

な?

それをお前に渡したよ?そん時にお前なんて言った?

もう私は決してお若さんに会いません!栄屋さんに行きません!

こう言ったの!

それを言っておきながらおめぇ!

おめぇはお若さんに会いにいってるじゃあねぇか!

根岸に通ってんだろ!

だから俺はお前に腹が立ってるんだ!

ちょ、ちょ!ちょっと待ってください!

いやいや、私はそんなことは決してしちゃおりま

してませんなんてよくそんなこと俺に言えるな?

冗談じゃねぇ!現にお前昨夜だって行ってんだろ?

分かってんだ、そういうことは!

ちゃんとお前、長尾先生に見られてんだ!

本当のところはおめぇなんざ、バッサリやられるところだ!

俺が間に入ってるから、てめえは助かってんだ!

今お前呼ばれてそれを言われて、こっちは顔から火が出た!

本当にしょうがねぇ野郎だ!

腕でも足でも折ってきますってんで俺は飛んで来たんでい!

てめぇの足なんぞ・・・

はぁ~・・・

折りてぇけれども、お前の顔見たらそれができねぇや・・・

そんな綺麗なそっぽしてるんだ!女(あま)なんぞいくらでもできるじゃあねぇか!

なんだって未だにお若さんのところに会いに行ったりするんだ!

なぜ根岸まで行くんだよ、バカ!

ちょっと待ってください・・・

あの、今度はそれじゃあ、頭(かしら)、私の話を聞いていただきとうございます・・・

いや、それあの、私も芸人をしておりますが、これでも男でございます・・・

あんなご迷惑をかけて手切れをいただいて、それで頭(かしら)を裏切るようなことは私にはできません・・・

その時に決してお若さんには会うまいと心に誓ったんでございます・・・

決して私はお若さんには会っておりません・・・

それに、その今お話伺ってると、おかしいと思いますのは

昨夜と申しましたが、他の日ならばいざ知らず、昨夜に限った私は根岸に行けるわけはございません・・・

どうして行かれねぇんだい!

だって、昨夜は頭(かしら)、あなたとご一緒だったじゃありませんか・・・

・・・

なにぉ?

俺と一緒?

そうですよ、お忘れになったんですか?

昨日、日の暮れ方にここにお出でになりまして

おい伊之助、これからちょっと川町行って飯を食うんだ付き合ってくれってこうおっしゃいました・・・

私お供をしてまいりまして、ご飯を頂いてそのまんま帰るのかと思ったら

これから一つ仲行こうじゃねぇかとおっしゃいまして吉原に参りました・・・

いつもの通り茶屋でもって一杯やって、それから姿海老屋に送られていったんでございます・・・

頭(かしら)とご一緒だったんで、根岸には行かれません・・・

あぁそうかぁ!

あ、そうか、そうだよ!

いや、忘れちゃったよ

ちょいと向こうに面白くないこと言われたんで、か~っときてつい忘れちゃったんだ!

そうだった、そうだった!

すまなかった疑って!お前そんなことするやつじゃねぇや!

剣術使いなんてものは物が分からねぇ野郎だよ!

これから行ってな、よ~く話をしてくるから!

すまなかった、心配するな!
これからまた駆け出して根岸に戻ってまいります・・・

えぇ、行ってまいりました!

どうした?腕なり、足なり折ってまいったか?

え~っと先生、そ、それ違うんだ・・・

あのね、あの野郎はそんなことする野郎じゃねぇんです・・・

実はね、あいつ昨夜こっちへは来てません・・・

なぜそう言い切れる

えぇ、あっしと一緒だったんです・・・

えぇ、いやあの昼間ね、ちょっと仲間の寄り合いがありましてね?

面白くねえことがあったんでね?

ちょいと一杯やって、そのままじゃどうにもなんだが我慢ができねぇってんで

野郎誘って川町行って飯を食って、それでも気が晴れねぇから仲へ行こうってんで

いや、吉原にね

それで二人で出かけていって、いつもの通り茶屋でもって一杯やって

それで姿海老屋に送られてったんで、野郎とずっと一緒だったんです・・・

えぇ、ですからこっちへは来られませんですね・・・

あいつじゃありませんよ?

そうか・・・

頭(かしら)と一緒であったか・・・

それが来ていたというのもおかしな話であるな・・・

う~ん・・・

ん?

今、登楼(とうろう)した店を何と申した?

姿海老屋?

姿海老屋と申せば大層な大店であろう・・・

え、えぇそりゃもう・・・

ああいうところで芸人を遊ばせるのか?

いえ!遊ばせるはずがありません!

芸人や半端者はあげねぇんですが、あっしはあそこの旦那に大変なご贔屓になっとるんで

あっしだけ内々に、えぇ、遊ばせてくれるんですよ

伊之助はどうしておる?

伊之助はダメでございます、えぇ!

あっしを送るってとそのまんま茶屋へ戻って、茶屋でもって寝て、朝にあっしを迎えに来る

いつもこうなんだ

それだ、頭(かしら)・・・

茶屋に下がると見せかけて、大門を出てるよ?

駕籠(かご)というものがあるぞ?

それに乗ってタバコを二三服するうちに根岸にやって来られる・・・

お若に会って、知らん顔をしてまた吉原へ戻ったのであろう・・・

なぁ頭(かしら)

お前は寝かしこまれたんだ・・・

あ!

あ、そうか!

あ、そうだそうだ 、そういう奴だ、あの野郎!

悪い野郎だ、本当に!

悪い奴ってのは色んなことを考える!

今度こそ間違いなくね、腕か足折り曲げてきますから!
また夢中で駆け出して、両国へやってきた・・・
お若伊之助を聞くなら「古今亭志ん生」
昭和の名人・古今亭志ん生は、「お若伊之助」を独特の語り口で演じ、怪談と落語の要素を絶妙に織り交ぜる。彼の演じる伊之助はどこかとぼけた味があり、シリアスな物語に軽妙な間を生み出す。志ん生ならではの脱力感のある語りが、悲劇の中にも粋な風情を醸し出す。
\Amazon Audileで聞けます/
※フルは↑の赤いボタンから1か月間無料でご視聴頂けます。

おう!よぉ!

あ!いかがでございました?

わかっていただけましたか?

何をいいやがんでいこん畜生!

この寝かし野郎!

寝かし野郎?それは一体どういう・・・

どういうことじゃねぇ!

俺を寝かしておいて!

茶屋に下がると見せかけて、大門を出てみろ?

駕籠というものがあるんだ!

それに乗ってタバコ二三服でもって根岸に行かれるんだ!

お若さんに会って、知らん顔をして朝俺を迎えに来たろ!

ちょっと待ってください・・・

本当にもうお頭(かしら)、そんなにお忘れになっちゃ困ります・・・

いつもはそうでございますけれども、昨夜に限っては違ったじゃございませんか・・・

私は茶屋の方へ下がろうと思って挨拶をしますと

おう!伊之!今夜ちょっと俺の話を聞いてもらいたいんだ!

まだ付き合ってくれとこうおっしゃいましたんで、お酒をいただきながら、頭(かしら)のお話を色々と聞かせていただきました・・・

ふと気が付きましたところ、もう日が出てまいりましたので朝になりましたよとこう申しましたところ

それじゃあ駕籠をあつらえてくれというので、二人で駕籠に乗りまして、帰りに丁子風呂によりまして、それで帰って来たんでございます

片時も頭(かしら)のそばを離れてないんでございます・・・

根岸に行かれるわけはないんですよ!

あぁ、そうか!

俺はすっかり忘れちゃってたんだ!

そうだ、そうだ!

ずっと俺の愚痴を聞いててくれたんだ!

なんだ、そうだった!

いやなんかちょっとしたことでもってね因縁つけようってんだ向こうは

待ってろ!じゃあまた行ってくるから!

心配するこたぁねぇ!

えぇ~先生!行ってまいりました!

どうであった?

いえ、もう先生あきらめてください

何しろね、昨日はあいつぁずっと俺のそばにいたんでございます

いつもはね、あのさっき言ったみたいに茶屋の方に下がるんでございますけども

昨夜はどうしても面白くねぇってんで野郎に愚痴を聞いてもらおうと思ってね?

あんまり男のするこっちゃあねぇんですけど、まぁあいつなら聞いてもらえるだろうと思ってね?

野郎を残してね?ず~っと愚痴をこぼしてたんだ・・・

って気が付いたら朝になったんですね・・・

それから駕籠をあつらえて、丁子風呂に寄って、それから帰ってきた・・・

だから野郎は片時もあっしのそばを離れてねぇんですよ

こっちへは来られねえんでございますよ

う~ん・・・

それはおかしな話であるな・・・

人違いじゃねぇんですか?

いやいや、前に一度栄屋で会ったことがある・・・

なるほど、若が夢中になるのも無理はないと思えるような男前である・・・

人違いだとは思えぬが、またそうでないとも言い切れん・・・

昨夜もまた来ておった・・・

今夜もまた来るであろう・・・

頭(かしら)・・・

今夜はここへ泊まって、真の伊之助であるかどうか見届けてもらいたい・・・

へい、分かりました!
さあ、これから酒の支度ができる 。やったり取ったりしているうちに、頭(かしら)の方は同じ所を行ったりきたり行ったりきたりして、へとへとになっちゃった。
ちょいと酒が入るってと、酒が一気に回ってうとうとうとうと始まる。

ああ、頭(かしら)・・・

ああ、よほど疲れているのであろう・・・

向こうへ行って横になんなさい・・・

どうも、あいすみません・・・
肘を枕にゴロりと横になると、深い眠りにつきます。ずっと夜が更けてまいります。
四つの鐘が打ち切る瞬間に裏木戸がすっと開いて、闇に生じて入ってきたものがお若さんの部屋に消えたのを長尾一角が見逃すわけがございません。
足を忍ばせて中の様子を見るってと、間違いなくまた伊之助が来ておりますから

頭(かしら)・・・!!

頭(かしら)!!

だぁ!!どうした!どこで火事だぁ!

しーーー!!

火事などではない・・・

伊之助が参った・・・

え・・・

すっかり忘れておりました、どこでございます?

こちらだ・・・

もうちょっと前へ・・・

見ろ、あそこだ・・・

ほう、人影が見えますね・・・

少しばかり開いておる、見てまいれ・・・

へい、分かりました・・・

(薄目で覗き見る)

先生!

間違いなくあれは、伊之助でございますよ!

間違いなく伊之助か?

昨夜のも・・・あれだぞ?

いやぁ、昨夜のは違います!

昨夜のは違うが、今夜は間違いなく伊之助でございます!

昨夜のは違うが今夜のはまさしく伊之助であるか・・・

まことか?

そうですよ・・・

そのようなこと・・・

いや、間違いなくそうか?

えぇ、あれは伊之助です!

昨夜のは違います!

それが間違っておると・・・

取り返しのつかぬことが起きるぞ?

そうすか・・・

でも間違いありません・・・

よし・・・
床の間に置いてあります種子島に弾を込めて、火縄に火をつけて・・・

ちょ、ちょっと待って先生!

そらぁ、その本物でしょ?

引き金ひくってと菜箸が飛び出たりするんじゃないんでしょ?

やめてくださいよ・・・そりゃいけません・・・

そりゃ伊之助は仕方ありません・・・

伊之助はそういう了見だから打たれて死んだって仕方がないけれども!

手元は狂ってお若さんにでも当たったら・・・

いやいや、そのような腕ではない・・・

そちらに下がっておれ・・・
狙いをつけて引き金を引く途端に、グァーっとものすごい音とともに間違いなく伊之助の胸を撃ちぬいた・・・
伊之助はぐるぐるっと回ってバタンと倒れると、お若さんはきゃーー!!と言って気を失ってしまった・・・

先生、何事でございますか!?

何か賊が侵入いたしましたか!?

拙者、日頃の腕前のご披露を・・・

いやいや、そうではない・・・

静かにいたせ、若が気を失っておる・・・

向こうへ連れていって介抱いたせ・・・

頭(かしら)・・・

頭(かしら)!!

はぁ~・・・

ひどい音でございますねぇ・・・

どうなりました?

死骸をあらためよ・・・

え?

あ、分かりました、どうも・・・

本当に、バカ野郎・・・

言わんこっちゃねぇ、だから俺ぁ昼間に言ったじゃねぇか!

てめぇが悪いんだぞこん畜生!?

あれだけ俺が一生懸命にお前の面倒をみて!

えぇ!?

こんなことになって俺ぁお前どうしたらいいんだ!?

いい間のふりして、ほっかんむりなんぞして!

この!!

・・・

せ、先生?

先生、これ伊之助じゃありません・・・

大きな狸でございますよ!

やはりそうであったか・・・

え?なんです?やはりそうであったかってのは?

いや、今夜のは伊之助だが昨夜のは伊之助ではないというのを聞いて

ことによるとそのようなことがあるやもしれんと思って

撃ち殺してみたが・・・

間違いがなくて良かった・・・

先生、これってどういうことなんです?

若があまりに伊之助のことを恋慕うところから、この年古う狸がそれを知ってな・・・

伊之助の姿を借りて、毎夜若をたぶらかしにまいったのであろう・・・

えぇ!?

そんなことがあるんですねぇ・・・

太ぇ野郎だ、本当にこん畜生め!

おめぇのために今日は俺行ったり来たり行ったり来たり、大変な騒ぎだったんだ!

こんのスケベ狸!!

てめぇにそんなことができるんだったら、俺が狸になりてぇや!

何を言っておる・・・
なんにしても、お若さんの体の方が心配でございますが、月にして生まれましたのがなんと狸の双子でございます・・・
すぐに絶命をいたしましたので、葬って塚をこしらえたと申します。根岸、御行の松の畔、因果塚の由来の一席でございました・・・
お若伊之助を聞くなら「古今亭志ん生」
昭和の名人・古今亭志ん生は、「お若伊之助」を独特の語り口で演じ、怪談と落語の要素を絶妙に織り交ぜる。彼の演じる伊之助はどこかとぼけた味があり、シリアスな物語に軽妙な間を生み出す。志ん生ならではの脱力感のある語りが、悲劇の中にも粋な風情を醸し出す。
\Amazon Audileで聞けます/
※フルは↑の赤いボタンから1か月間無料でご視聴頂けます。
コメント